脊椎と雨音

詩人になりたい人の詩たち

◆ 自殺という行為をしたことがある

自殺をしたことがあります。

あります、というのも変な話で、結局今こうして生きてしまっているのだから、その自殺は自殺未遂で終わってしまったものだが。

自殺という行為をしたことがあります。

私の寝室には今でも天井まである本棚からかけられた首吊り用のロープが、あのときのまま垂れ下がっている。
特に意味はなくて、ただ失敗した無力感で片付ける気すら起きずに、そのまま放置しているだけだ。

でも最近、それが救いになってきている。

6月末。梅雨が去ると共に私もこの世を去ろうと思った。なんてことはない。雨音を聞きながらあの世へ行きたいと思ったから、なんとかして梅雨の間に死にたかっただけだ。それだけの理由だ。
時期ではなく自殺をしようと思った理由はいくらかあるけど、結局それは塵も積もればで山となったもので、何か大きな出来事がキッカケになったわけではない。

自殺をしよう、と思い立ったのは5月の末頃だったと思う。

いつもは選ばないn+1番目の選択肢、「死ぬ」という選択肢が、何故か気軽に選択できるようになっていたから、あ、よし、死ぬか、と選んだだけだ。
それからの1ヶ月間は、数年ぶり、なんなら物心ついてから一番穏やかに過ごせていたと言っていい。

部屋の片づけなど放棄して、好きなものを好きなだけ食べに行って、嫌なことはやらないで、風呂も気が向いた時だけ入って、好きなだけネトゲで遊んだ、
当然何人かは感づいていた。希死念慮があることを知っている友人などは特に。でも皆口に出さなかった。死ぬつもりなんじゃないか、と言ってきたのは1人だけで、そう見えるー? と適当に誤魔化した。別に言っても良かったのだけど。

エンディングノートも書いた。遺書も書いた。やたらと文章が書きたくてノートに毎日考えていることを、置いていくように書き殴った。家族になるべく迷惑がかからないよう当日の段取りまで考えた。

でも失敗した。

それからしばらくは、すごく、とても、気持ちが凪いでいた。失敗した、死ねなかった、という残念感、無力感、脱力感。
数日は呆然としていたと思う。ネトゲもやめることを宣言していて、遺書のようなものをnoteにアップしていたのに結局戻ってきて、Twitterのふせったーで見たい人だけ見てくださいという形で自殺に失敗したことを語った。
皆、静かに再び迎え入れてくれた。
怒りもしない。悲しみもしない。ただいつも通り、少し心配した、くらいで、本当にいつも通り接してくれて、それがとても心地好かった。

それからしばらく、「死にたい」と思うことがなかったのに気づいたのは自殺して3ヶ月経った頃だった。
久しぶりに何かの拍子で「あー死にたいな」と思ったとき、あれ、死にたいって思うの久しぶりだな? と、あまり顔を合わせなくても平気な友人とばったり再会したときのような感覚で、その「死にたい」と思うことが普通だった私にとって、それを思わなかった数ヶ月間が逆に浮いているように感じた。

また元の私に戻ってしまった。それはいいことなのか悪いことなのか。

自分では別に悪いこととは思っていない。元々こういう思考をしているのが私という人間だ。
だから今寝室にぶらさがっているロープが、使わないと思うけれど、いつでもまたあの穏やかな日々になるトリガーとなって、私の救いになっている。

別にいいのだ。死にたくなっても。
別にいいのだ。死んでしまっても。

周りの友人などは私に生きてほしいという。けれどそれは友人達のエゴで、それをわかっている友人の方が多いというのは本当に、友人に恵まれていると思う。
どんどん元の自分へ戻っていっている。恒常的に死にたいと思うようになってきた。1日思わなかっただけで、あれ、久しぶり、となる。

思わなかった穏やかな日々も良かったけれど、やはりこの死への羨望を抱えているのが、私という人間だと思える。

死を選ぶことは少なくともしばらくはないだろう。
まただらだらと日々を、生きていくしかないのだ。