脊椎と雨音

詩人になりたい人の詩たち

しにたみくん

 しにたみくんは、いつも私の傍にいてくれる。

 朝目が覚める。セットしたアラームが鳴る前に起きてしまって、のろのろと手を枕元のスマホに伸ばし、手に取ってアラームを解除する。はぁ、と欠伸ではなく溜め息をついて、私は起き上がる。
 また〝今日〟が来てしまった。
 いつもと同じ繰り返しの今日。さして変わることもない今日。布団の上でぼーっとしながら、空虚な頭の片隅で、絶望を感じている。そんなときしにたみくんは語り掛けてくる。彼はいつも私と同じ時間に目を覚ます。
「おはよう。今日も始まっちゃったね」
 うん。そうだね。
「今日はどうしようか。こないだ病院行ったばかりだから、薬がたくさんあるよ」
 薬がたくさん。私は布団の上で膝を抱える。くすり。私が元気になるための薬は、毒にもなる。一度にたくさん飲めば、きっともっと楽になれる。
 私はゆっくりとベッドから立ち上がって、台所に行ってコップに水を汲んだ。薬の入っている棚から朝の分の薬を取り出して、口に放り込み水で流し込む。
「それだけでいいの?」
 ……うん。今日は、いいや。
「そっか。君がいいなら、いいよ」
 朝ご飯はいつも食べる気にはならない。朝空腹を感じることは少ないし、感じるときもあるが食欲がない。お腹が空いているのに食欲がないというのは不思議だが、けれど何も食べたくないのだ。
「無理しなくていいよ。食べたくないなら食べないでいい」
 ありがとう。
 私は洗面所に行って顔を洗って歯磨きをした。冷たい水が肌に、口内にしみる。けれど意識にはもやがかかったままだ。何も考えたくないと、脳が言っている。
「考えなくていいよ。好きなことだけ考えよう」
 しにたみくんは、優しい。

 寝間着から着替えて、のろのろとメイク道具を取り出して、鏡を覗き込む。生気のない顔が、そこには映っている。それを少しでも誤魔化すように私はファンデーションを薄く塗り、大きくため息をついた。
メイクが終わり準備が整うと、上着を羽織り、鞄を肩にかける。面倒だ。動きたくない。私は玄関にうずくまり、再びぼーっとし始めた。
「無理することないのに」
 うん。でも、行かないと。
 出勤時間まではまだ時間がある。五分ほどぼーっとできる時間がある。いつもその時間は確保するようにしていて、そうでないとエンジンがかからないのだ。私の世界はぼやけている。ピントがあっていない。いやあわせていない。だってはっきり見えてしまうと、悪いこともはっきり見えてしまうから。神経すら鈍らせて、世界を感じないようにしている。ぼやけているのが私の世界。ぼやけているから、世界に馴染むのに時間がかかる。
 そろそろかな。そう思ってスマホの画面を点ける。思った通り、出なければいけない時間だ。
「行こうか」
 うん。そうだね。
 しにたみくんはどこへでもついてきてくれる。彼がいるから、私は頑張れる。重い足を引きずって歩いて、横断歩道で立ち止まると、彼はいつも囁くのだ。
「赤信号で立ち止まらないといけないなんておかしいよね。走る車の前に飛び出したい人だっているのに」
 そうだね。
 信号が青に変わる。小さい頃、横断歩道の白いところだけ踏んで歩かないと悪いことが起きる、なんて噂があった。だから私は白線とアスファルトを交互に踏んで歩く。どちらも踏むよう気をつけながら、俯いたまま歩く。
 駅へ着くと、いつもと同じく通勤や通学する人達でごった返していた。人の隙間を縫って人の流れに乗りながら、自動改札に定期をかざしてホームへ向かう。いつもより人が多いことに気が付いて電光掲示板を見上げると、人身事故により遅延しています、と流れていた。
「人身事故だって。すごいね」
 うん。すごいね。
 線路に飛び込める人を尊敬する。たった一歩。されど一歩だ。こうしてたくさんの人に迷惑をかける、その事実を気にせず、ただ自分が助かるためだけに電車の前に飛び込む。自殺する勇気とは相当なものだと思うが、勇気があるかどうかわからないくらい追い詰められないと、できないものなんだろう。
 遅れてきた電車にはいつもよりも多くの人が乗り込んで、圧死するのでは、と思うぐらい押さえつけられた。
「苦しいね。酸欠か貧血になるかな」
 そうかもね。
 車内にこれだけ人がいたら、きっと酸素が足りなくなるだろう。それで倒れてしまったら、どうなるのだろう。私はいつもそんなことを考えながら、じっと、鞄を腕の中に抱いてその鞄を見つめている。
 やっと狭苦しい社内から解放されて、再び歩く。会社まで、あと数分。どんどん足が重くなっていく。どんどん呼吸が浅くなっていく。どんどん視界が狭くなっていく。私はなんとかゆっくりと深呼吸をして、無理矢理酸素を取り込んだ。
「苦しいね。薬飲む?」
 そうする。ありがとう。
 会社についてトイレに行って、鞄の中から頓服を取り出して口に放り込んだ。
「一粒だけでいいの?」
 ……うん。まだ、今は。
 私の答えに、彼は笑った。

 押し潰されたように苦しくなった胸を押さえながら会社を出る。会社の空気は、澱んでいて重くて濁っていて、吸っても吸っても息苦しい。外に出てようやく、思いきり息が吸えた。それでも潰されて縮こまってしまった肺にはさして空気は入ってくれず、息苦しいまま電車に乗ることになる。いつものことだ。そして満員電車に乗り、また窮屈で息苦しい空間へ閉じ込められる。
「これならもしかして、事故で片付けられるかもね」
 そうかな。
 私は俯いて電車から降りて、線路の方を睨みつけながら改札へと向かった。行きと同じく自動改札に定期をかざし、駅の構内を出る。やっとゆっくり、空気が吸える。
 歩くときいつも足元を見ているのに気づいたのはいつだったか。その癖はなかなか直らないけれど、ふとそのことに気付いたときに顔を上げると、広い世界が視界を覆うのが好きだったりする。夕暮れの空にオレンジ色に染まった街並み、行き交う人々とその足音。この世界に私だけではないと自覚できる、この光景。
 家に帰ると私は適当にパンプスを脱ぎ捨てて鞄を放って上着を放って、ベッドへ倒れ込む。
「大丈夫? 薬飲む?」
 大丈夫……。
 これからメイクを落として晩御飯の支度をして食べてシャワーを浴びて歯磨きをするのが面倒だ。
「面倒なら、やらなくていいんだよ」
 そういうわけには、いかないよ。
 私はお湯を沸かしてインスタント麺の蓋を半分開け、お湯を注いだ。週の大半はインスタントで済ましている。美味しいものが食べたいと思ったときだけ、簡単に料理をする。あとは別に、カロリーとある程度の栄養が採れればいい。
「炭水化物ばかり採っていると、食べてるのに栄養失調になるんだってね」
 うん。知ってる。
 ずずず、とインスタント麺を啜る。これはこれで美味しいものだ。けれどこの味にもそろそろ飽きそうなので、また別の味を買ってこなければ。食べ終わったらスープの残りをシンクに流してカップをゴミ箱に放った。私は夜に飲む分の薬を飲んで、膝を抱えてうずくまる。
「しんどいなら、もっとお薬飲まなきゃ」
 ……そうだね。
 私は夜の分に加えて頓服を飲んだ。今度から、この頓服は常用にしてもらおう。このペースで飲んでいたら足りなくなってしまう。
 電気を点けているのに薄暗く感じる部屋の中、私は考える。この先この生活がずっと続いていくのだろうか。どうして私はこんなに生き辛く生き難いのだろうか。闘病漫画でよくある理解のあるパートナーというやつが、私にも現れてくれないだろうか。一体そのパートナーとやらは、どこで手に入るのだろうか。誰か教えて欲しい。こんな状態じゃ誰かを探すことなんてできない、そんな気力なんてない。
「僕がいるよ」
 ……うん。ありがとう。
 私には、しにたみくんで十分なのかもしれない。
 私は重い腰を上げて、寝間着と下着を掴んでお風呂場へと向かった。服を脱いで洗濯機に放り込み、浴室へ入ってシャワーを出す。お湯を頭から被りながら考える。もう何も考えたくないのに、頭は勝手に回転する。今日あの人にああ言ってしまったけど失礼だったかもしれないな、あの小さなミスが今後大きなミスに繋がってしまったらどうしよう、今日の服似合ってなかったかな、今日のメイク濃すぎなかったかな、タイピング音うるさくなかったかな、電車の傍にいたあの人私を睨んでた気がするけど何かしたかな。ザーという水の落ちる音で、これらの不安と心配が流されればいい。けれど残念ながらシャワーというのは、体の汚れは落としてくれても脳内の汚れは流してくれない。
「たまにはお湯に浸かればいいのに。頭まで浸かったらすっきりするかもよ」
 そうだね。それも、いいね。
 頭と体を適当に上がってシャワーを止めた。ぽたぽたと髪や睫毛や顎から滴り落ちる雫を見つめる。私の苦しさもこんなふうに、滲み出て落ちていかないものか。
 浴室から出てタオルで体を拭いて、下着を着て寝間着を着て、髪をドライヤーで乾かす。美容院に最後に行ったのはいつだったか。伸びた髪の毛は鬱陶しい。乾かすのに時間もかかるし。けれど、俯いたときに垂れて髪の毛のカーテンで視界が狭まるのは、悪くない。

 ベッドに寝転がってぼんやりと天井を見つめる。私が上を見上げるのは大抵この時間くらいだ。青い空や流れる雲や夕焼けや漆黒の夜空は、あまり見ない。それを思い出しては、明日見上げてみよう、と思うのに、大抵明日になったら忘れている。しにたみくんでいっぱいになって、忘れてしまっている。今日は珍しく、その余裕があった。それはつまり、しにたみくんが少し距離を空けたってことだ。
「大変だね」
 そうだね。
 他人事のように彼は言う。実際他人事なのだろう。彼は私の意志とは関係なくやってきて、常に傍にいて、いなくなることがない。
 不幸に見舞われたとき、これ以上しんどくなるなら死にたい、と思う。幸せが訪れたとき、この後に不幸を味わいたくないから死にたい、と思う。朝起きたくないからこのまま永眠すればいいのに、と夜眠る。仕事に行きたくないから車に跳ねられないかなと信号を渡る。誰か背中を押してくれないかなと駅のホームに立つ。いっそ通り魔にでも刺されないだろうかと夜道を歩く。
 ずっとしにたみくんはそこに存在して、私に寄り添ってくれている。

 


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